『オペラ座の怪人』クリスティーヌのキスの意味とは?ーオタク歴20年が出した結論ー

『オペラ座の怪人』記事アイキャッチ

ここで扱う『オペラ座の怪人』とは

まず前提として、この記事で取り上げる『オペラ座の怪人』はアンドリュー・ロイド・ウェバー版である。

というのも、『オペラ座の怪人』はアンドリュー・ロイド・ウェバー版ミュージカルの他にもその他演劇やミュージカル・映画など映像作品で繰り返し上演されてきたため、ロイドウェバーのミュージカルの他にも数多くのバージョンが存在する。

だが本記事で取り上げる『オペラ座の怪人』は、アンドリュー・ロイド・ウェバー(以下ALW表記)がガストン・ルルーの原作をもとに1986年ロンドンで初演をしたミュージカルと(それを日本語版として公演した劇団四季『オペラ座の怪人』含む)、それの実質的映画化である2004年公開ミュージカル映画『オペラ座の怪人』のみに絞って語っていきたい。

  • ファントムには「エリック」という名前があるが、本記事では「ファントム」として統一表記する。
  • 本記事の引用部の日本語訳は、なるべく元の意味を損なわないように独自に訳したものである。

この記事を書くきっかけー「恋愛的意味でのキス?」ー

そもそも、本記事執筆のきっかけはあるX(旧Twitter)の投稿だった。

https://x.com/tezukakaz/status/1797405511941599518

要約して書くと、「ALWが後に続編(と一般的には言われている)『ラブ・ネバー・ダイ』を論拠に、クリスティーヌからファントムへのキスは「恋愛感情を含んだ」キスである。」といった内容。(他にもいろいろ語られているし、あくまで私が切り取った部分なので元ポストを是非読んでほしい)

このポストについて個人的に思うところがったので、反証というか、この物語について誠実に考えてきた結果導き出した個人的結論を記事したいと思った。元ポストが言う通り、たしかにこのキスの意味については、鑑賞者によって様々意見が分かれるのはたしかだ。

観る人によっては、「クリスティーヌはラウルを助けたいがためにキスをした」とか、また上記Xの投稿のように、「ラウルとファントム、どちらにも恋愛感情を持っていたが選択の結果(そして凶行をとめるため)ファントムにキスをした」とか、その他さまざまな意見・解釈がある。

この物語を「愛の物語」にしているのは、クリスティーヌからファントムへのキスありき

ALWの『オペラ座の怪人』は、フランス人作家がストン・ルルーが書いた怪奇ゴシック小説を基にしている。

以下ALWへのインタビューを一部引用しよう。

『オペラ座の怪人』は初め、大衆小説として出版されました。殺人小説なのかホラー小説なのか、歴史小説なのか恋愛小説なのかテーマも曖昧で、また当時出版された他の作品から様々な案も拝借しているようです。

(↑劇団四季が公開しているALWへのインタビュー)より引用

ALW自身が言っているように、ガストン・ルルーの原作は、ホラーでもあり、ミステリでもあり、ロマンス活劇でもあり、ジャンルが雑多に煮込まれていて、テーマが曖昧であった。それを、「ファントムからクリスティーヌへのキス」にフォーカスし、「愛の物語」に昇華したのがALWである。(ALW以前にも映画は作られていたが、ここまで「オペラ座の怪人」を世に知らしめ、有名にしたのはALW版ミュージカルの功績が大きい)

原作にも同様のシチュエーションで、「クリスティーヌからファントムへのキス」があった。同じようにファントムはクリスティーヌからのキスで、クリスティーヌとラウルを解放し、自身は彼女への愛を胸に抱いたまま「焦がれ死に」する。ここでのキスと、ALW版のキスとは、文脈的に大きく相違はないだろう。
それを、ALWは

  • ファントムの過去に関わるダロガの存在
  • 建築に携わったオペラ座の地下のしかけ

等の枝葉を「愛の物語」にフォーカスするために削り、最後の「キス」を、より観るものにとって感動的に・劇的に演出しているのが、ALW版『オペラ座の怪人』である。

それでは、この物語を「愛の物語」として決定づけるほど強力な力を持った「キス」とは、いったいどのような意味をもった「キス」であろうか?ここでの「愛」とはいったいなんだろう?「愛」にもいろいろある。私も、「クリスティーヌからファントムへのキス」に愛が含まれているのに異論はない。

20年近くの『オペラ座の怪人』オタクが考える、クリスティーヌからのキスの意味

だが、あえて私は断言したい。「クリスティーヌからファントムへのキス」は「慈愛・慈悲のキス」である、と。
つまりここでのキスは、それは恋愛的な意味を含んだキスではなく、「深い同情と理解の象徴的な行為」としてのキスーつまり慈悲・慈愛のキスーである、というのが私が出した結論だ。

この記事の執筆者は、20年近く前ALWの『オペラ座の怪人』に出会い、それから原作はもちろん各種サントラを買い集め、劇団四季の『オペラ座の怪人』、25周年記念公演、映画、スーザン・ケイの『ファントム』など繰り返し味わってきた往年の(?)『オペラ座の怪人』ファンである。
上記Xの投稿主が言うところの「ガチファン」である。(私は劇団四季の『オペラ座〜』に限定されないが。強いていえば音楽と物語とファントムというキャラクターが好き)

本記事では、そんないち「ガチファン」が、繰り返し考え続けて、「なぜそのような結論に至ったのか」を具体例を挙げながら考察していきたい。

目次

『ラブ・ネバー・ダイ』は、公式(ALW)が出してきたアナザーストーリーである

そもそも、引用したポスト主は、「『ラブ・ネバー・ダイ』という続編があるのだから、クリスティーヌからファントムへのキスは恋愛感情ありき」、というリプライをしていた。
なるほど、たしかに『ラブ・ネバー・ダイ』ではクリスティーヌとファントムの間に子供がおり、2人の間に「男女の愛」があったと解釈することに異和はない。
しかし、私は『ラブ・ネバー・ダイ』を論拠に、『オペラ座の怪人』のキスの意味を解釈するのは、適切ではないと考えている。以下にその論拠を挙げていこう。

論拠1 成功なくして続編はない

そもそもALW版『オペラ座の怪人』(以下「オリジナル」と記載)は、続編『ラブ・ネバー・ダイ』を前提にして作られていない。
なぜなら、オリジナルの成功なくして、『ラブ・ネバー・ダイ』を制作することは、ほぼありえないからだ。どこの世界に1作目の成功を勘定に入れず、続編を創ろうとするプロデューサーがいよう?たいてい、1作目が受けにうけて、世間から熱望され制作されるものだ。

また、オリジナル制作当初から『ラブ・ネバー・ダイ』を構想していた、などという資料や言質も見つけられない。(もしあったら教えてほしい)
事実、

1990年、「オペラ座の怪人』の美術・衣裳デザイナーを務めたマリア・ビョルンソンとの会話をきっかけに、アンドリュー・ロイド=ウェバーは20世紀初頭のニューヨークを舞台にした続編を創作する発想を得た。

(日本版『ラブ・ネバー・ダイ』公式パンフレットより引用)

と記載がある。
つまり、オリジナルが1986年に公演された4年後、続編を創作する発想を得て、紆余曲折あったのち、ようやく2010年にイギリスロンドンで『ラブ・ネバー・ダイ』は初演を迎えたのだ。

そう考えると、やはり『オペラ座の怪人』は、『ラブ・ネバー・ダイ』ありきで制作されておらず、オリジナルの舞台は、単体で完結した物語として構築されているとみるべきだろう。

論拠2 オリジナルとの情緒的な繋がりがない

『ラブ・ネバー・ダイ』は、初演当時から賛否でいうと否の意見が多かった。というのも、オリジナルの結末を覆し、キャラクター設定も大幅に変更されたため、「正統な続編」として受け入れられるかどうかはファンや批評家の間で議論の的になった。(参考:https://www.broadwayworld.com/los-angeles/article/BWW-Review-The-Controversy-of-LOVE-NEVER-DIES-20180410)

以下に、オリジナルと『ラブ・ネバー・ダイ』を比較して、なぜ「情緒的繋がりがない」と考えられるのか、具体例を挙げていこう。

クリスティーヌとファントムとの関係から見る、結末の変容

オリジナル
オリジナルでは、クリスティーヌにとってファントムは3つの顔があった。

  • 類稀な才能を持つ、音楽の天使
  • 殺人を厭わない、恐ろしい殺人鬼
  • 自分に恋し、欲望する男

この3つの顔の間でクリスティーヌの心は揺れ動き、畏れ恐れ、慄いていた。その心を明るい方へ導くのがラウルの存在であり、彼女はラウルと愛を誓い合うようになる(All I Ask Of You)

自分の才能を引き上げ、音楽の美しさ素晴らしさを教えてくれ、それを共有できるファントムをクリスティーヌは師(マスター)として憧れ慕う気持ちと、その容貌と、人を支配し容易に命を奪う狂気、そんな存在が自分に愛を乞うている、という事実に対する恐れを同時に抱いていることが作品を通して描かれている。

ラスト、ラウルと結婚して自分の元を去る決断をしたクリスティーヌに、ファントムは自分と生きるかラウルが死ぬか選べ、と二者択一を迫る。この時クリスティーヌは「The tears I might have shed for your dark fate grow cold, and turn to tears of hate…(あなたの悲しい運命に流すはずだった涙は、冷たくなり、憎しみの涙に変わってしまったわ…)」と軽蔑さえしている。結果、クリスティーヌの行動によってファントムはラウルを解放しクリスティーヌはラウルと共に去るのだが、クリスティーヌは一度戻ってファントムから贈られた指輪を彼に返している。ラストのクリスティーヌの心情については後述するとして、クリスティーヌはラウルを愛し、共に生きる相手としてラウルを選んだことが読み取れる。

『ラブ・ネバー・ダイ』
『ラブ・ネバー・ダイ』で、ファントムとクリスティーヌは「一度だけ男女の関係があった」ことが明らかになる。
Beneath A Moonless Sky」によると、オリジナルの結末のあと、クリスティーヌがファントムの元へ戻り、一夜だけ肉体関係を持った。翌朝、ファントムが自身を恥じてクリスティーヌが目覚める前に彼女の元を去り、クリスティーヌは彼を死んだものとして諦めるしかなくなった、ということだった。
この時できた子供がグスタフで、クリスティーヌは結婚の破綻を恐れラウルにその事実を黙っている。

それでは、オリジナルにおいてファントムの存在を哀れみ、悲しみ、感謝し、それでもラウルと共に彼の元を立ち去ったクリスティーヌとは一体なんだったのだろうか?

『ラブ・ネバー・ダイ』において、クリスティーヌは明確に「私はあなたを愛していた」、とファントムに言う。それならばなぜクリスティーヌはファントムを選ばなかったのだろう。彼が殺人者だから?ラウルはファントムの支配から逃れるためのただの手段だった?違うだろう。

『ラブ・ネバー・ダイ』をそのまま受け止めるならば、オリジナルのファントムとクリスティーヌの関係をむしろ「男女の仲」に閉じ込める解釈になり、托卵される夫(ラウル)と、愛する男に去られ別の男と一緒になる女(クリスティーヌ)と、昔の女が忘れられず未練たらしくよりを戻そうとする男(ファントム)との三角関係になり、クリスティーヌとファントムとの間の情緒的繋がりを男女のいざこざレベルの話に収めてしまう。結果、オリジナルの物語の美しさを損なっているのだ。

ラウルについて

キャラクター性の変容

オリジナルからそのキャラクター性が一変してしまった1番のキャラクターは、ラウルだろう。ファントムのキャラクターは『ラブ・ネバー・ダイ』においても、クリスティーヌの大切な存在を盾に自分の欲求を叶えようとする姿勢など、あまり変わっていない印象だが、ラウルはオリジナルの

  • 美しい容姿の好青年
  • 貴族の身分にも関わらず、クリスティーヌを嫁にするおおらかさ、真っ直ぐさ
  • 恋に恋するロマンチスト
  • ファントムに挑む勇敢さ(無謀ともとれる)

などのキャラクターから一変、

  • 下層階級を見下す姿勢「下層階級のクズどもの面前で恥晒しな扱い」
  • 「僕と遊んで」と話しかけるグスタフを無視
  • 酒浸りでアル中目前
  • ギャンブル癖で借金まみれ、クリスティーヌの稼ぎが頼り

オリジナルからは想像できない様相になっている。

なぜラウルをこれほどまでに落とさねばならなかったのかというと、やはりそれは『ラブ・ネバー・ダイ』においてクリスティーヌとファントムとの男女の愛を成立させるために他ならない。そもそもオリジナルから『ラブ・ネバー・ダイ』のシナリオに持っていくには無理があるから、ラウルのキャラクターはここまで変容してしまったのだ。

ラウルの後悔、哀惜

オリジナルにおいて、ラウルが主役の場面である冒頭のオークションのシーンを振り返ってみよう。

1911年、パリ・オペラ座でかつて使われていた小道具やポスター、装飾品が競売にかけられているという設定だ。「70歳になったラウル子爵」が、かつての思い出の品の数々を落札し己が手にすることによって、過去を回想する形で物語が始まる。

以下、『The Phantom Of The Opera Original London Cast』のCDに付帯していた歌詞カードより引用しよう。

PROLOGUE

AUCTIONEER

Sold. Your number, sir? Thank you.

Lot 663, then, ladies and gentlemen: a poster for this house’s production of ‘Hannibal’ by Chalumeau.

PORTER

Showing here.

AUCTIONEER

Do I have ten francs? Five then. Five I am bid. Six, seven.

Against you, sir, seven. Eight. Eight once. Selling twice.

Sold, to Raoul, Vicomte de Chagny.

ト書きで、「ラウルは、今でも目に輝きを宿している。(RAOUL, now, but still bright of eye.)」と記されている。ラウルは、「ハンニバル」のポスターを「7フラン」で落札後、『悪魔のロベール』で使われた小道具には入札せず、続いて競売にかけられた「シンバルを叩く猿の細工が付いた手回しオルゴール」を、入札者と競り合った後、「30フラン」で落札する。

ここでの「フラン」が現代日本においてどのくらいの価値なのか換算するのは容易ではないので、19世紀後半のフランスでの物価水準を例にとってみると、

  • 1フラン:食事1回分(庶民的な食堂での食事)
  • 3〜5フラン:1週間分の家賃(非常に簡素な住居)
  • 10〜15フラン:中等階級向けの服一着

相当らしい。出典(https://tenlittlebullets.tumblr.com/post/54856540503/resource-post-early-19th-century-french-currency,https://en.wikipedia.org/wiki/Economic_history_of_France)

すると、庶民にとってはいわずもがな、「30フラン」は貴族のラウル子爵にとっても日常の出費としては決して安くはない金額であることが分かるそれでは、なぜラウルは決して安くはない、むしろ大金を傍目から見たらただのガラクタである「猿の細工の手回しオルゴール」に払ったのか。

それは、その品々が「ある人」にまつわる、特別な品であるからに他ならない。落札した猿のオルゴールを手渡された後のラウルのセリフ(歌詞)を引用しよう。

(The box is handed across to RAOUL. He studies it, as attention focuses on him for a moment)

RAOUL (quietly, half to himself, half to the box)

A collector’s piece indeed.

… every detail exactly as she said…

She often spoke of you, my friend.. your velvet lining and your figurine of lead…

Will you still play, when all the rest of us are dead…?

(Attention returns to the AUCTIONEER, as he resumes)

ラウルは、猿のオルゴールに向けて、そして自分自身に向けて、語りかける。

「彼女が言っていた通り、全てがそのままだ(… every detail exactly as she said…)」

彼女」ーつまりクリスティーヌが、この「猿のオルゴール」のことを繰り返し語っていたらしいことが分かる。「彼女はよく君のことを話していた(She often spoke of you, my friend…)」つまり「猿のオルゴール」は、彼女と「ある男」の思い出の中に常にあった品なのだ。それにまつわる「思い出」は、ラウルとクリスティーヌの中でタブーではなかったのだ。あるいは、ラウルが嫌がっても、彼女は繰り返し話さざるを得ない状態にあったのかもしれない。

いずれにせよ、クリスティーヌにとっても、ラウルにとっても、「ある男」の存在は、亡霊(phantom)のように2人の関係のなかに常に「あった」。だからこそラウルは、直接自身の思い出の中にない「猿のオルゴール」に、懐かしみ、親しげに語りかけているのだ。

「他の皆が死んだ後も、君はまだ演奏してくれるのだろうか…?(Will you still play, when all the rest of us are dead…?)」

ここでの「all the rest of us」は、この猿のオルゴールが「目撃」した出来事の登場人物たちであろう。ラウルは晩年になって、自分とクリスティーヌ、そしてファントムとの間にあった出来事/感情的やり取りを知る最後の「証人」である「猿のオルゴール」を、深い喪失感や後悔とともに、感傷的に手にしていると考えられる。

この喪失感や哀惜が、『ラブ・ネバー・ダイ』のラストの結果なのだとはどうしても思えない。むしろラウルの後悔は、「今は亡き愛する妻への哀惜」「かつてオペラ座で繰り広げた三角関係の末の事件」と、そこでの「自身の選択(ラウルはファントムを捕えることに固執せず、クリスティーヌと早々に逃げることもできた)」、と「その結果(クリスティーヌにとってファントムは大きすぎる存在になった。先述の通り、彼女の一部として、終生ファントムの存在が2人の間にあった)」にあるように思われる。

すずたぬ

ちなみに、04年の映画版クリスティーヌが亡くなった年齢が明らかになって、享年63歳だったよ。(当時としては長生きした方じゃないかな)この事実にしてみても、「『ラブ・ネバー・ダイ』を正統な続編」とするには無理があるよね。

芸術(キャリア)か、女の幸せか

そもそもオリジナルの物語全体を俯瞰してみると、「芸術か(キャリア)か、 女の幸せか」といった普遍的テーマも見えてくる。

ラウルと結婚して女としての幸せを掴むか、ファントムの元で芸を極めプリマドンナに上り詰めるか。
だが、『ラブ・ネバー・ダイ』においてクリスティーヌはそのどちらも手にしている状態だ。時代背景的に、「キャリアも、女の幸せ(結婚し家庭に入る)も」手にすることは可能だったのだろうか。

ドガに見る、当時のパリの時代背景

有名なパリの印象派画家エドガー・ドガ(1834-1917)とクリスティーヌが生きた時代がほぼ重なるので、ドガが描いたオペラ座を参考に、当時の時代背景を探ってみよう。

有名なドガの絵画「舞台の踊り子」がある。

(エドガー・ドガ – The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM)、distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, リンクによる)

舞台で踊るダンサーの女性を、黒い服のパトロンが(あるいはパトロン候補か)舞台袖から眺めている。
ここでのパトロンは、ラウルと同じ貴族階級の裕福な男性たちだ。当時のバレエダンサーたちは、今とは違って貧しい娘たちだった。事実、クリスティーヌの出自もそんなものだった。彼女たちは、顧客として来る裕福な男性の愛人となることで貧困から抜け出していたらしい。
(参考サイト:https://www.suiha.co.jp/column/%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E3%80%8C%E3%83%98%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%80%8D%E3%81%AA%E7%94%BB%E5%AE%B6%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F/)

つまりは愛人どまりで、パトロンがオペラ座のダンサーの娘と結婚するなど時代背景的にありえなかったのだ。
だが、オリジナルのラウルはクリスティーヌを「愛人」どまりで弄ぶことはせず、「婚約」し、実際に結婚したことが分かる。

すずたぬ

『ラブ・ネバー・ダイ』 でも実際に結婚していましたね

当時の時代背景を見ても、ルルーの原作にしても、ラウルは同等の身分のある女性と結婚するはずだったものを、(おそらく周囲の反対を押し切ってまで)いちバックダンサーにすぎなかったクリスティーヌと結婚した姿勢は誠実だったと言わざるを得ず、クリスティーヌを本当に愛してなければできない所業だった。

そして貴族の妻になったクリスティーヌがオペラ歌手としてキャリアを続けることはほぼ不可能だったと考えられる。なぜなら当時のフランス社会では、貴族階級の女性には特定の社会的役割が期待されており、特に結婚後は家庭内にとどまり、社交界での活動を中心にして、家名を高めることが求められてたからだ。また、オペラ歌手などの芸に生きる人は貴族階級よりもはるかに低い階層として扱われていたため(貴族が愛人として囲っていた事実からも明白)貴族の妻となったクリスティーヌがオペラ歌手を続けることはラウルの名誉や社会的地位を損なうことになり、この点からも「仕事も恋も」といった選択はありえなかったことが分かるだろう。

特に『ラブ・ネバー・ダイ』のラウルは貴族のプライドにしがみつくキャラクターだが、そんなラウルが妻のクリスティーヌに「下層階級の」人間の仕事をさせていることは、キャラクター性に矛盾が生じている。

つまりは、『ラブ・ネバー・ダイ』は、オリジナルの「芸術(ファントム)か女の幸せ(ラウル)か」といった2者択一の物語を、その仕事も恋もどちらも手にしているより現代的な解釈の物語として繋げたことが分かる。

その点からも、オリジナルの物語の結末(ラウルと結ばれ家庭に入るクリスティーヌ)を翻す展開となっていると言わざるを得ない。

結論 正式な続編としてではなく、ALWが出してくれたファンサービスと捉えよう

長々と書いてきたが、必ずしも『ラブ・ネバー・ダイ』は駄作ではなく、作品を貶めるような意図はない。音楽はあいかわらず美しいし、ファントム好きとしては、クリスティーヌとの愛を手に入れ、グスタフとの可能性を残したラストは希望が持てる。舞台美術も美しかった。

だがオリジナルの「正当な続編」と考えるのは、無理があるということだ。
もし正当な続編としてそのまま受け止めるならば、オリジナルの物語やそれに対する評価さえも覆す結果となってしまう。

事実、ALW自身も、

「直接的な続編というより、同じキャラクターを使った新しい物語」

としての位置付けを語っている。​(参考:https://www.broadwayworld.com/los-angeles/article/BWW-Review-The-Controversy-of-LOVE-NEVER-DIES-20180410,https://en.wikipedia.org/wiki/Love_Never_Dies_(musical))

あくまで、ヒットし長年愛されてきた作品の副産物であり、オリジナルが生んだ「ファントム」というキャラクターファンに向けたALWが贈るある種のサービス的作品と捉えるといいだろう。

すなわち、『ラブ・ネバー・ダイ』を論拠にオリジナルのキスの意味を「恋愛的意味だった」と断定することはできない、ということだ。

クリスティーヌのキスが意味するものー愛と救済の瞬間

それでは実際のところ、なぜクリスティーヌはファントムにキスをしたのだろうか?

クリスティーヌのキスの意味とは?なぜファントムは2人を解放したのだろう?

私は、クリスティーヌはラウルを助けようとする一心で自らの心を押し殺し、キスをしたのではないと思っている。あのキスは、物語上のクライマックスであり、あのキスがあればこそ、『オペラ座の怪人』は愛の物語になりえたのだ。そう、あれは愛のキスなのだ。だが元ポスト主の言うような、恋愛的意味のキスではないと思っている。恋愛的意味では、これほどまでに観るものに感動を呼ぶ物語になりえなかった。

クリスティーヌの心情変化

先述の通り、クリスティーヌにとってのファントムは3つの顔があった。

  • 類稀な才能を持つ、音楽の天使
  • 殺人を厭わない、恐ろしい殺人鬼
  • 自分に焦がれ、欲望する男

序盤のクリスティーヌは、ファントムを「亡きお父様が遣わしてくれた音楽の天使」として信じきっていた。

それをラウルの出現によって、地下のファントムの棲家へ導かれ、「現実に存在する生身の男」であると認識することになる。しかも仮面の下は二目とみれぬ醜さがあった。
しかしその男は類稀な音楽の才能をもち、音楽の力でヴェールをかけるように自分を陶然とさせ、自分が知らない音楽の高みまで導いてくれる。と同時に、「オペラ座の怪人」としてオペラ座を恐怖で支配し、殺人さえ犯す狂気を孕んだ危うい人物であることも彼女は知っていく。

作中で描かれるのは、父への想いと重なった「音楽の天使」を信じ慕う気持ち(「Angel Of Music」「Wishing You Were Somehow Here Again」とそれに伴う音楽の才に魅了される気持(「The Phantom Of The Opera」「Music Of The night」)と、同情と恐怖だ(「Why Have You Brought Me Here」〜「All I Ask Of You」)。それらが複雑に混じり合い、クリスティーヌは彼を恐れながらも、離れ難くなっていた。

Down Once More以降は、追い詰められたクリスティーヌの心情が言語化されているのでより分かりやすいだろう。

クリスティーヌの心情が分かる部分だけ以下に抜粋してみる。
(地下に引き摺られてきたシーン)

(The dummy of CHRISTINE sits crumpled on a large throne.

The PHANTOM drags CHRISTINE roughly out of the boat.

She frees herself and backs away as he stares blackly out front.

Braving her terror (恐怖を押し殺し), she addresses him fiercely)

CHRISTINE

Have you gorged yourself at last, in your lust for blood?(血への欲望に飽き足りのね?)

(No reply)

Am I now to be prey to your lust for flesh?( 今度は私が、あなたの肉の欲望の餌食になるの?)

(中略)

CHRISTINE

This haunted face holds no horror for me now…(もうこの呪われた顔は私を恐れさせない…)

It’s in your soul that the true distortion lies…(真の歪みはあなたの魂の中にある…)

(ラウルを人質に二者択一を迫られたシーン)

CHRISTINE (to the PHANTOM)

The tears I might have shed for your dark fate

grow cold, and turn to tears of hate… (あなたの悲しい運命に流すはずだった涙は、冷たくなり、憎しみの涙に変わってしまったわ…)

(中略)

CHRISTINE (looking at the PHANTOM, but to herself)

Farewell,(さようなら、)

my fallen idol and false friend…(私の堕ちた偶像、偽りの友よ…)

One by one(一とつずつ)

I’ve watched illusions shattered..(幻が砕け散るのを見てきたわ…)

CHRISTINE

…you deceived me -「…あなたは私を欺いた 」

gave my mind blindly…「 私の心を盲目にして…」

引用からは、「恐怖」が全面に出ており、ファントムがクリスティーヌの願いー愛するラウルと結ばれるーを無視し、自身の欲望をかなえようとする姿に完全に「音楽の天使」への偶像も崩れ落ち(そう、彼女が慕い信じてきた「音楽の天使」は幻だったのだ)軽蔑に変わっていることがわかる。と同時に、ファントムの「肉の欲望」の餌食となるのだ、という自己憐憫や諦め、怒りさえ読み取れる。逆に言うと、クリスティーヌはここまで追い詰められて初めて、「音楽の天使」への偶像を完全に捨て去り、容貌や狂気への恐怖を超越し、ファントムを欲望も醜さもある不完全ないち人間として認めることができたのだ

ファントムの孤独ー彼が本当に求めていたものー

一方、ファントムの心情はどうか。

ファントムは、醜い外見と類稀なる才能をもつキャラクターだ。
彼はその容貌のために、迫害されながら生きざるを得ず、必要ならば殺人を犯し、オペラ座を影から支配する力を持つようになる。
彼にとってクリスティーヌは自身の音楽のミューズであり、同時に彼の人生の中では手にいれるべくもなかった、魅力的で美しい女性である。

同じく「Down〜」以降から引用しよう。

PHANTOM (coldly)

That fate, which condemns me

to wallow in blood has also denied me

the joys of the flesh… this face – the infection

which poisons our love…

(He takes the bridal veil from the dummy, and moves slowly towards her)

This face, which earned a mother’s fear and loathing…

A mask, my first

unfeeling scrap of clothing…

(He places the veil on her head)

Pity comes too late –

turn around

and face your fate: an eternity of this before your eyes!

(They are almost touching. She looks calmly and coldly into his face)

引用部、

「この顔のために「血に濡れた運命」を歩まねばならず、「肉の喜び」も遠ざけた。母親でさえ彼の容貌を恐怖し嫌悪し、最初に与えられた衣服が「マスク」だった」

とある。これだけでも彼の孤独で壮絶な人生が想像できる。

この段階のファントムはひたすら、クリスティーヌからの「憐れみ」や「恐怖」を拒否し、社会が彼をそう扱ってきたような「醜い怪物」としてではなく、1人の男として/人間として愛してくれるよう、痛々しいほど求めている。ここでの愛を求める気持ちはもちろん、「男として愛して欲しい」「当たり前の対等な人間として愛して欲しい」、という想いが大部分を占めているが、それと混在する形で、母親から当然得るはずだった原始的な愛ー存在への許しーのようなものがあったのではあるまいか。

「The Point Of No Return」から、「ファントムからクリスティーヌへの欲望」が強調されているが、ファントムが本当に求めていた愛は、男女の愛以前の、もっと根源的なものだったのかもしれない。

いずれにせよ、彼がクリスティーヌに本当に求めていたものは、自分の欲望を(クリスティーヌの意思を踏み躙って)叶えることではない。「愛してくれること」、ただそれだけなのだ。

愛、同情、理解、救済、その全てを含んだキス

以下にキスの前後を引用しよう。

CHRISTINE (quietly at first, then with growing emotion)

Pitiful creature of darkness…(哀れな闇の生き物よ…)

What kind of life have you known…?(どんな人生をあなたは送ってきたの…?)

God give me courage to show you you are not alone…(神様、どうかあなたが1人じゃないことを示すための勇気をお与えください…)

(Now calmly facing him, she kisses him long and full on the lips.

The embrace lasts a long time. RAOUL watches in horror and wonder.

前述の通り、クリスティーヌはファントムに到底選ぶことができない2者択一を迫られてはじめてファントムを「狂気の天才」でも「醜い化け物」でも「音楽の天使」でもなく、いち人間として認め、向き合い得た。

それゆえ出た言葉が上記である。

ここでのクリスティーヌは、自身のためーラウルを救うためーではなく、「醜い化け物」でも「音楽の天使」でもなく、対等ないち人間として向き合い「あなたが孤独ではないと示すため」の「勇気」を神に望んだ。つまりファントムの孤独な心を救いたい/癒したい」その一心の行動だったのだ。完全に他者(ファントム)のための行動なのである。直前のクリスティーヌは、自分の望み(愛するラウルと共に生きる)をファントムによって絶たれ、怒り悲み、絶望し、苦しみの待った只中にいた。そうして追い詰められ、この苦しみを与える張本人であるファントムを「救いたい」と行動に移す(show you you are not alone)ことは、彼女にとっては「無私の行動」であり、大きな「勇気」がいることだったのだ。キスの瞬間、彼女は今までの自己憐憫(「欲望の餌食/生贄」のかわいそうな私)や、自分の願いが支配的なやり方で奪われたことに対する「憎悪・恐れ・怒り」を超越し、完全にファントムを想う気持ちで、彼にキスをした。彼女もまた、キスの瞬間、今までの自分を乗り越え、成長した瞬間でもあったのだ。

彼女のそういった気持ちをどう表現したらいいかわからない。
ファントムを「醜い化け物」「音楽の天使」でもなくいち人間として認め、彼のこれまでの人生と苦しみに想いを馳せ、心から理解し、哀れみ、共感し、それらの想いが一体となって、彼女はキスをした。

それを、私は「慈悲/慈愛」のキス、と冒頭で表現したが、この表現が適切なのかどうか、分からない。

ただこの時クリスティーヌがファントムに向けていた感情は、憎しみでも嫌悪でもなく、彼を想う「愛」だ。その「愛」が、「恋愛的な愛」ー男女間で交わされるような肉欲を伴うような愛ーではないことは、これまで述べてきた通りである。
(クリスティーヌはファントムの「欲望の餌食」になることを拒否している。物語のなかで「恋愛的な愛」を担うのは、ファントムと対照的なキャラクターであるラウルだ)

なぜファントムはラウルとクリスティーヌを解放したのか?

オリジナルの公演をもう観ることは叶わない。そのため、オリジナルの文脈で演出された25周年記念公演の演出・演技を参照しよう。

「怯え」「驚愕」「衝撃」「感動」。キスを受けるファントムは、目を見開き、クリスティーヌを抱き返そうと伸ばす腕は震え、結局彼女を抱きしめることさえできない。なおも力強く抱きしめるクリスティーヌを自ら引き離し、自分が今受けた衝撃・感情を味わうように、しばらく間が続く。
そうしてようやっと、ラウルを解放し、自分のことを忘れ、ここから立ち去れと命令する。
ファントムにとって、勝利は目の前だった。
クリスティーヌが自分と生きるか、さもなくばラウルが死ぬか。どちらにしろラウルとクリスティーヌが結ばれる道はありえなかった。
それをクリスティーヌからのキス一つで、手放した。なぜか。
それはそのキスが、それだけファントムにとって意味のあるものであり、感情が揺さぶられるものであったからに他ならない。ファントムが本当に望んでいたものー「1人の人間として理解され、愛を受けること」ーが得られたのだ。恋人同士が当たり前にするキスではない。彼には恋人からのキスはもちろん、母親からのキスさえ受けることがなかった。彼女はそれを理解し、その哀れさを認め、抱擁し、癒そうとした。ここで受けた「愛」は、ファントムのクリスティーヌへの執着を手放させるほど、「愛」を知らないファントムにとっては、衝撃だったのだ。

ファントムに解放されたクリスティーヌとラウルは、固く抱擁を交わす。そうして2人はファントムの命令のまま、怪人の隠れ家を後にしようとする。残されたファントムは、自分の感情を慰めるように、冒頭の「猿の細工つきオルゴール」に歌いかける。

「Hide your face, so the world will never find you…(素顔を隠せ、誰にも見つからないように…)」

自身を嘲るように、悲しみのあまり再び自分の殻に閉じこもるように…
そんなファントムの元にクリスティーヌが現れ、指輪を返そうとする。

Christine, I love you…

だがクリスティーヌは、感情が抑えられないようにしながら、ファントムの手の甲にキスを送り、そんなファントムを振り切るようにして、ラウルと共に立ち去る。

ファントムが彼女を手放すことは、最も痛みを伴う決断だったのだ。「彼の音楽」を「終わらせる」ほどの。それでもファントムは彼女を、ラウルと共にいかせた。クリスティーヌが、彼に示して(show)くれたように。

まとめ

この記事のまとめ

  • ALWの『オペラ座の怪人』は、ガストン・ルルーの原作から枝葉を削り、よりクライマックスのキスを感動的に演出した、「愛の物語」である。
  • クリスティーヌからファントムへのキスは、「愛」のキスだと言うのには異論はないが、ファントムの人間性を認め、彼の人生を哀れみ、深く共感し、理解し、慰撫したいと行動に移した結果が「キス/強い抱擁」であり、それは「恋愛とはちがった愛」である。そして、この「キス」により、ファントムとクリスティーヌの情緒的繋がりは強固になり、冒頭のラウルの哀惜に繋がる。
  • 『ラブ・ネバー・ダイ』を論拠に、『オペラ座の怪人』のキスの意味を「恋愛的意味」とするのは適切ではない。
    なぜなら、
    • オリジナルの『オペラ座の怪人』は『ラブネバーダイ』を想定して作られていない。
    • 想定して作ったものではないので、「正当な続編」として扱うのに無理が出ている
    だから、
    『ラブ・ネバー・ダイ』は、ALWが出してくれたファンサービスと捉えよう。

長々書いてきたが、私がこの記事を書いて1番言いたいことは、権威ある人の主張や批評をそのまま受け取りすぎないでほしい、ということだ。たしかに表現する側が意図した演出や文脈は「ある」。だが、物語自体に正解はない。どう捉えるか、それは最終的には鑑賞者に委ねられている。だから、作品をみて心揺さぶられたら、自分がその時抱いた感想を大事にして欲しい。

すずたぬ

権威に追従せず自分で物語を味わい、調べて、自分が持った「独自の感想」を大事にしよう


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